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経営学部 商学科

中原准教授が『シラバス論』出版記念講演会で発表されました。

2019年12月17日 経営学部 商学科

商学科中原准教授が、芦田宏直先生(学校法人河原学園理事、同法人副学園長、人間環境大学副学長)御執筆の『シラバス論―大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社)出版記念講演会にて発表されました。中原准教授は、本書の校正作業を担当し、実際に本書において中核概念となる「コマシラバス」を執筆されている教員です。中原准教授からは、当日の解題草稿をいただきましたので、以下掲載させていただきます。

講演会当日の様子

 

芦田宏直先生の略歴

一九五四年京都府生まれ。稲田学院博士後期課程満期退学(哲学、現代思想専攻)。学校法人小山学園理事、同・東京工科専門学校(現東京工科自動車学校)校長、東海学教授を経て、現在、学校法人河原学園理事、同・副学園長、人間環境学・副学長、辻調理師専門学校グループ顧問。二〇〇〇年度労働省「IT化に対応した職業能力開発研究会」委員、二〇〇三年度経済産業省「産業界から見た学の人材育成評価に関する調査研究」委員、二〇〇四~二〇〇七年度文科省「特色ある学教育支援プログラム」審査部会委員、二〇〇八年度文科省「質の高い学教育推進プログラム」審査部会委員などを歴任。著作に『書物の時間─ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』、『努力する人間になってはいけない─学校と仕事と社会の新人論』、翻訳(監訳)にJ.-L.マリオン著『還元と贈与─フッサール・ハイデガー現象学論攷』などがある。

 

●「コマシラバス」を実際作って、使ってみて―コマシラバスは大学教育にどんな影響を与えるか―
(2019年12月5日更新版)

大阪産業大学経営学部准教授
中原 翔
nakaharasho@gmail.com
Twitter:@ShoNakahara
Instagram:nakaharasho

目次
1. 「コマシラバス」を書く
 1-1. 芦田先生との“出会い”
 1-2. シラバス忘年会
 1-3. 経営学総論Bの授業計画をコマシラバス化する
2. 「コマシラバス」を使う
 2-1. 実際の授業での使用
 2-2. 「中原先生、小テストの範囲と内容が合っていません」
 2-3. 「お前みたいな若手教員に“総論”なんか担当できるわけがない」
3. 「コマシラバス」を普及する
 3-1. 全学FD研修会(芦田先生招聘)の企画と実行
 3-2. 2020年シラバス入力項目(案)に対する“憤り”
 3-3. 大阪産業大学における“大学教育”の「これから」

 

1. 「コマシラバス」を書く
1-1. 芦田先生との“出会い”
 ついに、『シラバス論―大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社)が出版される。私が芦田先生に初めてお会いしたのが2018年12月9日の忘年会(通称:シラバス忘年会)だから、この出版までに丸一年が経過したことになる。あっという間の一年だった。こんなに一年が早く過ぎたのは初めてかもしれない。

 しかし、私と芦田先生との“出会い”は、約10年前まで遡る。当時、神戸大学大学院経営学研究科博士課程前期課程(修士課程)の院生だった私は、経営組織論・管理者行動論がご専門の金井壽宏教授に師事していた。金井先生の豊富な知識量と実務への影響力から、金井ゼミには様々な研究テーマの院生が所属していた。サイバネティックス論、社会化論、言語論、企業家論など。経営学が学際的な領域であることを伺い知れる素晴らしいゼミだった。

 芦田先生のお名前は、その当時金井ゼミの先輩だった伊藤智明先生(京都大学経営管理研究部特定研究員)と福本俊樹先生(同志社女子大学助教授)から伺った。「サイバネティクスや機能主義(批判)について面白いブログを書いている人がいる」。そんな会話だった。実際に芦田先生のブログを見てみると、まだ修士学生だった私にはその内容がうまく理解できなかったものの、一般的なブログとは違う著者の熱量のようなものを感じ取った。「なんなんだ、この人は」。それが芦田先生に“出会った”最初の印象だった。今回の『シラバス論』では、その熱量はさらに増している。

 芦田先生のブログを少しずつ読み出してから約2年が経過した頃、私は芦田先生の新著が出版されることをTwitterで知った。2013年に出版された『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン)である。この『努力する人間になってはいけない』では、既存のマーケティング論(マーケット論)、読書論、就活論、殺人論、キャリア教育論などの幅広いテーマが俎上に載せられているが、大抵の論者は批判されている。批判ならまだ良い方で、その多くが“殺されている”。俎上とは「まな板の上」という意味だが、この本では何人もの論者が著者のまな板の上で“殺されている(さばかれている)”。「半殺しで苦しむよりは、一気に殺った方が成仏しやすい」という感じかもしれない。

 実は、私も“殺された”一人である。2016年3月に博士論文を提出したのだが、提出後に『努力する人間になってはいけない』を改めて読み返していた時、5年間積み上げてきた研究成果がたったの一文で批判される箇所を発見した。それも適当に書いた一文ではなく、この領域を熟知していなければ書けないような鋭い一文だった。この時も、「なんなんだ、この人は」という想いに駆られた。「この人には死ぬまでずっとそう感じさせられるかも」と思ったほどだ。なお、どこの一文であるかは、私の“人権”を守るために明示しないが、実際に手に取って確認してほしい。

 2016年4月に大阪産業大学に着任して3年が経過した頃、芦田先生がTwitter上で忘年会を開催すると告知された。誰でも参加可能となっていたので申し込もうかと思ったものの、この人は自分を一度“殺した”人だと思い出した(会ったら、もっと“殺されるかも”の境地)。それから一日が過ぎ、三日が過ぎ…と時間が経つ中で、もう参加しないでもいいかという気になっていった。ただ、「これを逃すと“犯人”には会えないかも」という執念が最後には勝って(そもそも自分を殺した“犯人”に会える機会など、幽霊になって化けて出る以外ない)、気づいた時には芦田先生宛てにメールを書いていた。緊張して、メールを一通書くのに一時間がかかっていた。

 

1-2. シラバス忘年会
 シラバス忘年会、当日。芦田先生から集合場所に指定されていたのは品川のご自宅だった。ご自宅の近くまで来ると閑静な高級住宅街だと分かって、もう少し散策しておけば良かったと後悔した。インターホンを鳴らし、ご自宅に上がらせていただく。既に数名の先生がいらっしゃって談笑の声が聞こえる。緊張気味にご挨拶をする。重厚なソファに案内される。ただ座って話を聞いていても、芦田先生と先生方の圧力で口がどんどん乾いていく。それを察してか、芦田先生が冷蔵庫から飲み物を出してくださったのだが、何を飲んでいるのかも分からないまま、時間だけが過ぎていった。その後、芦田先生の愛車アルピナで会場のヒルトン東京の中華料理店「王朝」へ向かった。向かう道中も、芦田先生は緊張気味の私に「中原さん、趣味は?」と話を振ってくださった。それがとても嬉しく、またリラックスすることができた(ただ、私が変わった趣味(カルト映画)の話をし始めて、芦田先生に「なに、それ?」と言われてしまい、ものの2分で貴重な会話は終了してしまった)。

 会場の「王朝」に到着する。シラバス忘年会には、大学教員以外にも、様々な領域の方々が参加されていた。ご挨拶などを済ませていると、芦田先生がおもむろにマイクを握られた。冒頭では『努力する人間になってはいけない』の後日談などを交えて、参加者の緊張をほぐすように面白い話題を話された。前半の30分ほどそれらの話題が続いて、後半にコマシラバスに話題を移された。人間環境大学で実際に使用されている「人間環境学」(1年前期・城田純平先生担当)のコマシラバスが配布され、その解説が行われた。私はこの時の解説を無断で録音していたのだが(今もそれを聞きながらこの本文を書いている)、特に私が重要だと思ったのはコマシラバスのコマの中身(コマ主題細目と細目レベル)だった。以下がその解説である。

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 これが私が1998年からやり始めたシラバスの、今一番新しい先端の形で、今(全国の)大学では細かく書くようにと言っていますけど、全然うまくいっていません。これは一つの科目、15回90分授業で「人間環境学」という私どもの大学の「建学の精神」を最初の一年生に15回教える授業です。それで、僕たちの時代であればここだけ(コマシラバスの科目概要部分を指差しながら)だったんです。それで一番、最初のところ。私は1とか2とか呼んでいますが、ずーっと一番後ろの15まで番号を打ってあるのが15回分の講義の講義概要になっています。今日は、大学の先生や教育関係者も沢山来ていますが、多分この授業計画を見ると、自分は大学教員をやっていていいのかと思うくらいに詳細に書いています(参加者は苦笑い)。それでこれが「積み上げの解像度」というやつです。これが例えば社会人基礎力とか社会人マナーとかって科目で、このコマシラバスを書けって言っても街の講座屋は絶対に書けません。

 それで、ここがコマシラバスの細目ですが(コマシラバスの細目部分を指差しながら)、この科目の15コマの1コマの位置付けは何なのかをまず書かせています。次がこの位置付けに基づいて、何分節で授業をするのかというのがコマ主題細目です。これは本で言えば章題というやつですね。この先生は、1コマ目を4つの観点から解説しますよと宣言しているわけです。それで次、ここが一番大事なのですが、細目レベル。それで、これはね、コマ主題細目までは最近のいかがわしい国立大学でも書いているわけですが、ここから先が書けている大学が一個もない。例えば、どういうことかと言うと、コマ主題細目の1番「人間環境学という理念の背景にあるもの」ということを喋りますよ、と。それで、「これはどの辺りのレベルまで喋るのですか、先生」と聞かれた時に、下の細目レベルの「人間環境学という建学の理念の背景にある大学・学問の状況(学問の細分化・専門化の問題)を知る」ということを通じて背景を勉強するということを理解する、と。これは決して良い細目ではないですが、つまり細目の数に応じて細目レベルを書かせています。これを全部のコマで、そういう風に細目の概念に応じて書く。これを例えば、学生がインターネットで検索した時に、このレベルまで勉強しておけというのが細目レベルになります。

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 現在、シラバスを詳細化している大学は増えているが(関西圏では近畿大学や大阪工業大学が特に詳細化しているが)、芦田先生が仰るようにコマ内部の詳細化(コマ主題細目とそれに応じた細目レベルの記載)まで行っている大学はほとんど見当たらない。それは単なる概念的な詳細化ではなく、そのコマに、どのような時間配分で(単純計算であれば、90分間÷コマ主題細目の数となるが、コマ主題細目が3つなら1コマ主題細目について30分程度、4つなら1コマ主題細目について23分程度)、どのくらいのレベルで、どれだけの内容を教えるかというガイドラインを書き記すことである。90分間の授業でそこまで書く必要がないと思われるかもしれないが、実際に授業を行っていると90分間は専門的に詳しいテーマを扱う場合には「短い」と感じるし、そうでない場合には「長い」と感じる時間である。だからこそ、専門的か否かに関わらずコマの中身の時間配分とレベルを予め書き記して、その分量(専門性)を整えておくことが大切である(特に専門的でない箇所については新しく勉強し直す必要がある)。

 それと合わせて、学生が「これから」習うことと教員が「これまで」に習ったことを教えるのでは見えている景色が違うため、コマ主題細目と細目レベルを詳細化しておく必要がある。「これから」のことは誰にだって分からない。しかし、教員は「これまで」を学生に教えているわけだから、「これまで」が一体どこから始まって、どこで終わるのかを明示しなければならない。

 これは、学生時代に部活動をやっていて監督やコーチにランニングをさせられる場合に似ている。同じ道のりを走るにしても、監督やコーチに「じゃあ、行くぞ」と言われてどこまで走るかわからない場合は苦痛でしかないが、「今日は、この山を一周して帰ってくるが、下りは楽だから、上りのこのポイントとこのポイントで少し力を入れて走るように」と言われたら、走る側も配分を考えることができる。何より走る意識が変わる。つまり、学生自身にも“終わり”を見せること、そしてその“終わり”から逆算した場合の“始まり”の意味を理解させることが重要なのである。このことは、芦田先生が『シラバス論』の「あとがきにかえて」の部分で「終わり=始まり論」として言及されている。是非、ご参照いただきたい。

 ちなみに、私はこのシラバス忘年会で解説後の芦田先生を捕まえコマシラバスの質問を繰り返していた。「王朝」の最高級の料理がたとえ冷めてしまっても仕方ないという覚悟があった。芦田先生もその場で私に熱く解説してくださって、最後には「お前、これ(コマシラバス)書いてみろよ」と諭してくださった。私自身も「大阪に帰ったら絶対に書いてやる」と思っていた。そんな熱い解説を聞いていたものだから、気づけばお腹も減っていた。「コマシラバスもいいが、やっぱり何か食べなければ」と思い、「王朝」名物の「あんかけチャーハン」を食べようと思ったのだが、時すでに遅しだった。おかわり分も含めてすべて無くなっていた。私が「あんかけチャーハン」を逃した“犯人”は、ここでも芦田先生だった。

 

1-3. 「経営学総論B」の授業計画をコマシラバス化する
 私が授業計画をコマシラバス化し始めたのは、それから8ヶ月後のことだった。大学はようやく夏季休業期間に入ったところで、私は期末試験や採点業務を終わらせて米国経営学会に参加するためにボストンへ向かった。そのボストンで、ふと頭をよぎったのがコマシラバスだった。「この夏季休業期間中の時間の固まりをコマシラバスに費やさなければ」。そこでボストンにいる間に頭の中で構想を練っておいて、帰国してから5日後の8月18日にコマシラバスの作成に取り掛かった。ただし、後期の授業計画(つまり、既存のシラバス)は既に学生に公開されているため、大幅な修正ができなかった。既存の授業計画(シラバス)をコマシラバスにするしかなかった。

 だが、既存の授業計画(シラバス)をコマシラバス化するのはなかなか厄介な作業だ。既存の授業計画(シラバス)ではその授業の“終わり”としての履修判定指標が作成されていないため、履修判定指標から逆算してコマ毎を書こうとすると、どうもうまくいかない。それに既存の授業計画(シラバス)をもとに履修判定指標を作成してみると、自分の授業自体が専門的なものに傾斜していて、(授業内容の凹凸を補正するための)履修判定指標自体も傾斜してしまう。まさにこうした意識が重要なのだと芦田先生は仰るだろうが、書こうとしている自分にとってはとてもハードルの高い作業だった。

 まず、「コマシラバス」の講義概要を書く。シラバス忘年会で配布された城田先生作成の「人間環境学」のコマシラバスをもとにして、科目コード、学年・期、科目名、単位、授業形態、必修・選択、学習時間、前提とする科目、展開科目、関連資格、担当教員名、備考欄を作成した。その右側にカリキュラムの中での位置づけ、科目のテーマ、科目の概要、科目のキーワード、到達目標を記載した。ただし、配布するとなれば全員が同じコマシラバスを手にしてわからなくなるだろうから、科目コードの上に学籍番号と氏名の欄を作成して、学生が自分だけのコマシラバスを作れる工夫も凝らした。これまでのシラバスとは違って実際に授業で“使用する”ことをアピールするために、コマシラバスの上には「毎回の授業に必ず持参すること!!」と注書きを入れた。備考欄も活用し、経営学総論Bの15回分の授業内容(コマ主題)を書き入れ、どこからどこまでが1セットの授業なのかを学生も教員もひと目で理解できるようにした。

 次に、1回目の授業である。1回目の授業では、この科目がどのような目的で行われる科目なのかを主に説明し、前期の経営学総論Aの復習と経営学総論Bで学ぶことの予習を行った。そのため、コマ主題細目としては、「1. 本講義の進め方」「2. 経営学総論Aの復習:戦略論」「3. 経営学総論Bで学ぶこと」の3つを設けた。このコマ主題細目に対して、細目レベルを書き込む。「1. 本講義の進め方」では概念型ではなく実際に授業を行う場合に学生と教員が相互に遵守すべきルールを記入した。次の通り。

 「本講義は、座席指定とする(座席表を確認して、自分の席に必ず着席すること)。始めに本講義のコマシラバス(以下、本コマシラバス)を紙媒体で配布する。その上で、本コマシラバスの説明、授業の進め方、予習・復習の仕方、評価方法(履修判定指標)などを説明する。授業中に机に置く教材は、原則として、本コマシラバス(教材(1))、教科書(教材(2))、講義ノート(教材(3))の3点セットとする。もちろん、筆記用具は可。(ただし、適宜ルーズリーフなどのノートは利用してもよいこととする)。私語を慎み、携帯電話などの電子機器は電源を切ってカバンにしまうこと。関係のない資料等は片付けること。途中退室は原則禁止とする(公欠以外は全て欠席扱いとする)。なお、特別な事情がある場合には、中原に事前に了承を取ること。コマシラバスについては、教材(4)を参照のこと」。

 これは、頭の中で実際の授業をイメージしながら、どのように学生をコントロールすれば良いかを書き入れたものだ。実際に、この「本講義の進め方」を明示しておくことで、授業自体のコントロールがかなりうまくいっている。コマ主題細目の2と3についても、ただ戦略論(経営学総論A)と組織論(経営学総論B)の概要にふれるのではなく、それをどのように、どれだけ振り返るのか、あるいは見通すのかをレベルがわかるように書き入れた。

 ここで15回分全ての内容に言及することは控えるが、第15回目を書き終えたところであることに気がついた。自分が専門とするコマに関しては細目レベルは厚くなるが、専門でないコマについては薄くなることだ。厚くなっている箇所は一先ずそのままにして、薄くなっている箇所はもう一度専門書や他の教科書を参考にして、書き入れるようにした。これを実際に使ってみると、厚くなっている箇所は90分がとても短く、薄くなっている箇所は長く感じる。それだけ今までの授業で内容の凹凸があったということだ。こうした事態を意識することは、『シラバス論』で「差分の意識」と言及されている。この「差分の意識」は頭の中にあるものを実際に書き起こしてみないことには自覚できない。自覚する可能性があるとすれば、授業とは無関係の世間話を先生が行う瞬間、つまり「話すことが他にないから、この話でも」と思う瞬間だろうが、それはその時々に「コマシラバス」さえない状態の思いつきで話されるため、「差分の意識」ではない。学生はいつも教員の思いつきの中で振り回されているということだ。

 

2. 「コマシラバス」を使う
2-1. 実際の授業での使用
 「コマシラバス」を書き終わったのは9月16日で、書き始めてから約1ヶ月後のことだった。しかし、“完成”というのには程遠い状態で、自分としては使わないよりはいいかという感じで初めての授業に臨まざるを得なかった。ちなみに、今年度からは講義ノートも一から書き下ろして用意するようにした。何より昨年度がパワポ資料のみの授業だったため(なぜパワポ資料が良くないのかについては『シラバス論』の第二章第五節を参照のこと)、それを全て捨てて一から講義ノートを作成したのだった。初回授業日の前夜には出来たての「コマシラバス」と講義ノートを初回配布するために、大量に印刷した。帰宅した後も次の日の緊張のせいか、あまりよく眠れなかった。

 経営学総論Bの初回授業日は9月25日だった。座席指定であるため、授業教室の前にA3版の大きな座席表を2枚貼り、約260名の学生に「自分の学籍番号が書かれた席に着席するように」と促した。授業開始のチャイムで、前から「コマシラバス」と講義ノート(1回目に加えて、次回の予習もあるため2回目の分も含めて)を配布した。学生には、私語禁止・携帯禁止であることを伝えた上で、第1回目のコマ主題細目と細目レベルを口頭で読み上げた。学生が授業に入るために、携帯の電源を切ってカバンの中に入れさせる。私語が無くなったところで(というより、座席指定にすると友達と近くに座ることができないため、私語は勝手に減ったが)、授業の内容に入っていった 。

 授業を行う場合でも、いくら詳細化していたとしてもトークの重要性は落ちることはない。初回授業(経営学総論概観)でも、コマ主題細目3「経営学総論Bで学ぶこと」では組織論を大きく3つに分けるという説明を加えている。これが分かればひとまず合格という風に。しかし、実際にこれをトークで教える時には、そもそも「組織とは何か」の説明が必要であることが分かった。このように、いくら細目レベルを詳細化していても話す時には違った観点から話すことがあるし、そのトークによって自分の「コマシラバス」への“反省”の契機が生まれてくる。したがって、黒板には(細目レベルには記載のない)「組織とは何か」と書いて、その下にC. I. バーナードの言う組織の三要件(共通目的、協働意欲、コミュニケーション)を書き出すということを行った。授業終了後は、自分の黒板で書いたものが細目レベルの説明不足な箇所であったことが分かるため、学生全員が教室を出た後に、黒板の内容をそっと自分の「コマシラバス」に赤ペンで記入した。

 なお、初回授業では履修判定指標の重要性についても説明した。履修判定指標とは、この科目で問われることを予め明示したものであり、つまりそれが期末試験の出題範囲を示しているものである。この履修判定指標は履修指標、履修指標の水準、重要キーワード、関連回、配点などから構成されるが、学生はこの履修判定指標があることで経営学総論Bという科目の“終わり”が見え、さらにそのコマ毎(コマ主題細目+細目レベル毎)の重要性を理解することができる。

 例えば、私の経営学総論Bでは「1. 経営学総論の全体像」という履修指標に対して、次のような履修指標の水準を設定している。「経営学総論Aで学んだ戦略論と経営学総論Bで学んだ組織論がどのように展開してきたのかをそれぞれ樹形図を描いて説明できるように復習しておくこと。特に前者は戦略論が競争戦略論と多角化戦略論に分類・展開でき(それぞれは更に細分化するが)、後者はミクロ組織論、マクロ組織論、メゾ組織論に分類・展開できることを理解しておくこと。具体的には戦略論と組織論を樹形図とキーワードを使いながら800字程度(つまり、戦略論は400字程度、組織論は400字程度)で説明できるようにしておくこと(そのためには、本講義1回目の講義ノートを必ず再読し、理解し、反復的に書く練習をする必要がある)。」

 これを予め開示しておけば、関連回である第1回目と第6回目のコマの意味が学生にも伝わり、この話をしている時に学生はかなり集中することになる。さらに、期末試験に直結していると分かれば学生の勉学意欲も格段に上がるし、その“終わり”に向かって予習をどんどん進めることもできる。さらに、先に進むことができる(あるいは後に戻ることもできる)ということが大量落伍者の防止につながる。

 このように、「コマシラバス」があることで、初回授業から第5回目までの授業はスムーズに教えることが出来た。ここで問題は小テストをどのように作成・採点させるかだった。しかし、これにもあらかじめ手は打ってあった。小テストを大量の落伍者を防ぐ方法として位置づけ、小テストの集計結果の開示するようにしたのである。これは既に導入されている先生もいらっしゃるだろうが、小テストを行った場合に単に答えを教えて点数を計算させるだけではなく「その点数が全体の何%に位置付けられるのか」を学生と確認する。

 第6回では学生が受ける小テストの下の空白に集計用のグーグルフォームのQRコードを添付しておき、点数計算を終えた学生がそこに合計点と各設問の正誤を記入できるようにしている(小テストは評価には入れないため、自己申告でも十分である)。小テストを教員が採点してもいいのだが、丸付けをするために小テストを一旦回収・採点していると再度学生に返却するまでに時間的なラグが出来てしまう。そのため小テストは自己採点とし、その自己採点が終わった段階で、「それでは携帯電話を出してください」と言い、学生自身にQRコードから回答結果を記入させている。実際にグーグルフォームで、以下の表を授業中に投影した。これがあれば、学生自身が自分の点数が全体の中でのどのくらいに位置付けられるかを把握することができ、特に60点以下の学生が他の学生との差分を意識することができる。

第6回小テストの点数分布

       

第11回小テストの点数分布

 

 なお、第11回では学生自身が差分を意識した形跡を確認できた。第11回の小テストも、難易度は第6回目と同様に設定した。その上で実際に小テストを行ってみると、S評価の点数分布(91-100点)は変化がなかったものの、A評価(81-90点)は6.1%から21%、B評価は16.3%から20.4%、C評価は21.4%から14%という風に、(恐らく)C評価やD評価だった学生がB評価やA評価の方へ流れた形跡が確認できた(大量落語者を防止できる可能性が生じている)。こうした変化が起きた可能性は、問題が簡単だったか、あるいは学生が頑張ったのかのいずれかだが、先述のように難易度は変わっていない。つまり、学生が自分の点数と全体の点数の差分を解消するために予習・復習を行い、点数アップを行ったのではないかと考えられる。その証拠に学生アンケートでは次のような回答が得られている。

・コマシラバスのキーワードは非常に役立つ。非常に理解しやすい。
・コマシラバスを使うことによって、期末試験への負担感・不安感が軽減されている。
・コマシラバスがあることによって、予習・復習を行いやすい。
・コマシラバスを有効活用されていて、授業がわかりやすく感じました。シラバスよりも良いです。
・講義を楽しみにしています。

※なお、芦田先生、中西先生(広島修道大学)より「円グラフを利用するのではなく、ヒストグラムを利用してきちんと分析した方がいい」というアドバイスを後日いただきました。ここに記して感謝申し上げます。

 

2-2. 「中原先生、小テストの範囲と内容が合っていません」

 小テストで言えば、今年度の経営学総論Bでは学生からの重要な指摘があった。小テストを作成する場合、私は履修判定指標を使う。しかし、小テストのコマである第6回目の2つ目の細目レベルを確認すると、8月時点で次のような記入を行っていた。「小テストでは、次の観点からそれぞれ設問を設けることとする。『1. 戦略論において競争戦略と多角化戦略の違いは何か』『2. 企業とはどのような存在で、それを支えている資本主義体制とはどのような経済活動を促すのか』『3. 所有と経営が分離される時、所有者(株主)の暴走と経営者の暴走はどのようなメカニズムであるのか』『4. 不祥事を機能分析する時、どのような4つの機能が考えられるか』『5. コーポレート・ガバナンスの機能として株式会社に出来ることと出来ないことは何か』である。この点を改めて復習しておくこと。」つまり、小テストを作成している時、この細目レベルの指示が履修判定指標と必ずしも合致していないことに気づいたのだった。しかし、どちらが大事かと言えば履修判定指標の方であるから、1回目の小テストはこの細目レベルの指示を無視して作成しなければならなかった。

 小テスト後に“事件”は発生した。第6回目の小テストが終了した後、女子学生の一人(Iさん)が私のところに近寄ってきて、「中原先生、小テストの範囲と内容が合っていません」と、ぼそっと呟いたのだ。彼女が言うには、私が書き込んでいた細目レベルでの指示と実際に小テストの内容が合っていないということだった(恐らく、彼女はそのせいで自分が点数を取れなかったのだと思う)。まさに先に述べたような、“二重の範囲”が指定されていたからであり、教員の“失敗”だったのだ。それをIさんは見事に見抜いており、その場で慌てて謝罪せざるを得なかった。「次回の小テストでは予め細目レベルの指示は無視しても良い」と言い、続く授業で学生全員に謝罪した 。

 このように「コマシラバス」を配布し、実際に使っていれば、本来的な意味でのシラバス・チェックを行える。学生が目を光らせて「コマシラバス」を読み込んでいるからだ。さらに教員自身も、あらかじめ書いていることと実際に行うことと差分を否が応でも意識するから、リアルなシラバス・チェックを行うことができる。現在、国立大学でも軽薄なシラバス・チェックは行われ続けているが、例えば筑波大学が公開している「筑波大学:シラバス作成のためのガイドライン」では、シラバス・チェックは授業担当教員が事前に自分で行うようになっている。質問項目に“✓”を入れれば、それでチェックしたことになるというものだ(こういうものは、本来的な意味でのチェック機能を持たない)。私は約260名の受講生に「コマシラバス」を配布して、隅から隅まで読み込ませ、さらにその通りに授業を行っているのだから、必ず先ほどのような差分が生じてくる。これこそ、本来的なシラバス・チェックではないだろうか。

 

2-3. 「お前みたいな若手教員に“総論”なんか担当できるわけがない」

 シラバス・チェックで言えば、私は芦田先生にも書き終わった「コマシラバス」を確認いただいた。10月14日に芦田先生のご自宅に伺った。後で述べるように、芦田先生には大阪産業大学の全学FD研修会で研修講師を務めていただくことになっていた。その打ち合わせも兼ねて「コマシラバス」もご覧いただいた(実際にはほとんど打ち合わせにはならず、私の「コマシラバス」へのアドバイスを非常に沢山頂いた)。タイトルの「お前みたいな若手教員に“総論”なんか担当できるわけがない」というのは、その時にいただいたご指摘である。現在、経営学総論A・Bを担当している私にとっては、この発言の意味内容が重要だった。芦田先生にまず尋ねられたのは、「この経営学総論で何を教えようとしているのか」だった。私は即座に、「経営学総論Aでは戦略論を、経営学総論Bでは組織論を教えています」と答えた。

 しかし、すかさず芦田先生は「“総論”や“概論”というのは、経営学が歴史的(世界史的)にどういう風に発展してきたのかとか、経済学が経営学とどういう風に違って発生してきたのかとか、そういうことの“見取り図”を与えてやらなきゃいけない」と仰った。「その都度、その年代的にどういう経営学的な問題を乗り越えてきて、それが社会とどういう関係を持っていたかを教えるべきだ」ということだ。これで言えば、現在の経営学関連のテキストは、現在の経営学の理論や事例に収斂している場合が多く、それによって経営学の断面図しか見えて来ない。何を隠そう私の授業がそうであるように。だからこの「コマシラバス」も根本的に書き変えなければならない。

 しかし、シラバスを書き変えるまさにその時に、経営の始まり(起源)にもう一度遡って、その歴史を紐解いていく必要がある。だから、「お前みたいな若手教員に“総論”なんか担当できるわけがない」、と芦田先生は仰ったわけである。「じゃあ、どうしたらいいんですか」との(少し怒り気味の)私の質問に芦田先生は、「若手教員は必死になって自分の専門領域の狭いところを追いかけているのだから、“総論”を教える場合には経済学史とか経営学史の最もレベルの高いものを数冊取り揃えて、自分ももう一回勉強するつもりでやらないといけない」と仰った。つまり、経営とは何か、経営学とは何かについて(世界史的な)広がり・深さを俯瞰的に考えられる書物を使いなさい、ということだ。確かにこれは若手教員には、担当できない。できるはずもない。この時に私は初めて“総論”の意味を知ったのである。このことは、『シラバス論』の中でも次のように言及されている。自戒を込めて、引用させていただきたい。

 昔の大学では、〈概論〉を担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった。その理由は若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったからである。〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない。そして〈専門〉を脱するのは専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理なことだ。頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えないから。

 ヘーゲルもまた「ミネルヴァのふくろうは黄昏時に飛び立つ」(『法の哲学』中公クラシックス、二〇〇一年)と言ったし、ドゥルーズもまたそれとは別の意味で、「『哲学とは何か』という問いを立てることができるのか、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいておそらくほかにあるまい」(『哲学とは何か』河出書房新社、一九九七年)と言う。ヘーゲルにとっては時間の真理は――空間の真理は時間であるにしても――時間の否定(時間の〈終わり〉)だった。ドゥルーズの「…とは何か」という問いはヘーゲルと違って「具体的なもの」について語ることと関わっているが、それもまた専門性がものを見えなくするからだ。
 

 

3. 「コマシラバス」を普及する
3-1. 全学FD研修会(芦田先生招聘)の企画と実行
 11月26日(火)に全学FD研修会を実施した。この全学FD研修会では、芦田先生に研修講師としてご来校いただき、「シラバスとは何か―シラバスの正しい使い方について」というタイトルでご講演いただいた。参加者は、学長、副学長などの役職者に加えて教職員・学生を含めて約50名であった。通常の全学FD研修会が30名程度の参加者であるから、今回の全学FD研修会への関心が高まっていることが分かる。

 ここからは少し私なりの解釈も交えながら、芦田先生のご講演の概要を振り返ってみたい。冒頭では、社会人教育と学校教育の相違点が述べられた。現在、多くの大学では子ども(児童、生徒、学生)を「生涯にわたる〈学びの主体〉」(芦田宏直「シラバスと大学—〈学習〉か〈教育〉か、あるいは学校教育の主体性について(於:大阪産業大学)」p. 1、以下頁数付き引用は同資料からの引用)として捉え、彼らが予め学校教育(大学教育)の是非を判断するに足る知識や態度を兼ね備えた「強い主体」であると仮定している。この仮定に基づけば、大学教育においても必修科目を増やすのではなく選択科目を増やすことによって、自分の好きな科目を選択し、自由に学ばせることができる。

 しかし、芦田先生はこの「強い主体」論を批判する。子ども(児童、生徒、学生)が「強い主体」であると仮定する場合の“強さ”とは、家庭や地域の影響を受けたことに過ぎず、それは経済格差、文化格差、情報格差を反映したものに過ぎないという主張である。つまり、その「強い主体」の実態(強さ)とは、格差社会の中で偏向的な知識と態度を兼ね備えた〈学びの主体〉というわけである。この考え方を踏まえれば、〈学びの主体〉とは「(知的に)強い主体」ではなく「(知的に)弱い主体」であり、この「弱い主体」がいくら自由に学びうるとしても、上記の格差を乗り越えることはできない(格差を乗り越えるのだとしたら、学的伝統のような長い時間で形成される時間性以外に方法がないからである)。

 〈学びの主体〉が「弱い主体」である以上、選択科目を増やしてしまえば、学生はそれ以前の経済格差、文化格差、情報格差をそのまま反映した状態で科目を選択してしまうことになる。本来的に学校教育(大学教育)で学ぶべき知識を事前に選択することはできないのだから、「この先生なら簡単に単位が取れそう」とか「この科目を友達が取るから」といった形骸化した理由で科目を選択し続けて、またも偏向的な知識と態度で社会に舞い戻ってしまうのである。このような「弱い主体」に対しては、選択科目ではなく必修科目に基づく教育、自由主義ではなく管理主義に基づく教育が必要になる。このように書くと必ずと言って良いほど「学生を縛りつけるな」という浅はかな批判が寄せられるが、これはまさに早計であろう。なぜなら、必修科目と管理主義は学生を縛りつけるためのものではなく、大学教育における知識を教授することによって「強い主体」へと変貌させ、彼らの本来的(知識的)な「多様性」を開花させるからである。つまり、「(知識的な)〈多様性〉は、知識基盤の上ではじめて花咲く」(p. 1、括弧内筆者)。
 
 他方で、社会人教育における〈学びの主体〉とは「強い主体」である。社会人は既にその多くが大学教育における「多様性」を持つため、彼らに必修科目を課すのではなく、選択科目を提供する必要がある。これは「コマシラバス」の(別の)活用としても考えることができる。学生には、必修科目を「コマシラバス」のコマの“全体”を使って教えることが重要になるが、社会人にはその「コマシラバス」のコマの“一部”を使って教えることが重要になる。「コマの“切り売り”」も『シラバス論』で言及されているが、社会人には“切り売り”することによって知識を補完することが必要なのである。

 次に芦田先生が話されたのは、「〈概論〉教授」(p. 2)であるが、これは先に述べた内容(2-3)と重複するため割愛する。次に話されたのは、「教育情報の公開と信頼性」(p. 3)である。これは大学教育に対して、教育成果を数値化するように文科省の要請などが行われているが、例えば学生のGPAや試験点数などを数値化したところで、その授業の内実が不完全なものはいくらでもある、という話である。そのため、次の「シラバスの原則」(p. 4)として、「シラバスは、教員が、①何を、②どの観点に基づいて、③どの深さまで、④どの時間で(どれだけの時間を使って)、⑤どんなふうに教えるのか、教えたいのか、を組織的に示した文書(科目に対する教員の専門性が露呈する文書)」(p. 4)として構成される必要がある。これ以降は、シラバスの悪例の紹介とコマシラバスの内容に入っていくため内容は割愛するが、詳しくは是非『シラバス論』を熟読いただきたい。

 なお、今回の全学FD研修会に学生をも参加可能としたのには理由がある。『シラバス論』でも記載されているように、「コマシラバス」は教員と学生の双務契約書であり、教員も学生も互いに「コマシラバス」を使うことで初めて授業の質が上がってくる。そのため、教職員だけではなく学生も「コマシラバス」の重要性を理解する必要があり、通常のFD研修会では異例の学生参加とした。実際に、学生は15名程集まっていた。その参加学生には中原ゼミ3年生も混じっており、彼らには終了後に「良ければ感想を下さい」とだけ伝えておいた。これを送ったのは、終了直後の18時38分だった。数人が「今日の感想をお送りします」と言って、200字から300字程度の文章を送ってくれる中で、一人いつもすぐに返信のある学生からずっと返信がない状態だった。私は帰宅して、ヘトヘトのまま夕食と入浴を済ませて、すぐに眠ってしまった。この時点でも、彼からの返信はないままだった。

 ところが朝起きてみると、その学生からメールで添付文書が送られてきていた。受信時間は深夜1時頃の表示。文書を開くと、約4,000字を超える感想が書かれており、それは芦田先生のご講演を一回だけ聞いたものとは思えないほど、精度の高い文書だった。以下、彼の許可を得た上で、掲載させていただく(私の要約よりも詳細かつ有益であるのは言うまでもない)。

 

「シラバスと大学ー〈学習〉か〈教育〉か、あるいは学校教育の主体性について」 ― 芦田宏直先生の講演の感想

●社会人教養と学校教育

 まずはじめに話されたのは、社会人教育と学校教育という観点です。結論から言うと、社会人教育は、何を学びたいかが明確で、それが一番学べる講座はどれか、どんな人がそれを教えてくれるのかが重要で、講師は、その人が持っていた学びたいこと(目的)を叶えられるか講師かどうかでその講義の良さが決まってきます。社会人教育は、受講者中心ですし、講座は受講者の手段です。

 しかし、学校教育は違います。どんなことを学べばいいのか、どんな人に教わるといいのかがまだ決まっていない、わからない人を相手にします。そのため、意欲も様々で、大学では、ただ履修(授業を受けて、レベルの下げられた試験を受けて、単位をもらう一連の流れ)して卒業するという人がたくさん存在しています。しかし、大学の本来の姿は、履修ではなく、修得してもらうということです。修得とは、講師から、その授業から何を学んだのか、どんなことが身についたかということが大事になってきます。講師が何を教えようとしているのかが学校教育では大切なのです。

 大学という施設では、社会から隔離された場所である必要があります。なぜなら、地域、家庭、親の所得や学歴という外部の環境に左右されず、平等の学問を受けさせるということが大事なのです。それは、社会という階層の中で知識を多く持っているものが上にいけるという、外部の影響を比較的受けにくいことが勉強で得られる知識だということです。そのため、大学では知識をつけさせるようにする工夫が必要で、その一つがコマシラバスというものなのです。

また、ここでは、学生の評価基準というものにフォーカスして時間を当てられました。教員が行う採点の合格基準が30%も下げられて底上げしているというのが今の現状です。そうしなければ学生に単位認定できない状況にあります。
その理由はいくつかありますが、ここでは、合格するだけの意欲がないということと、教員にそれだけの実力がないということを挙げられていました。そのため、合格ラインに到達しやすいように、小テストやレポートで意欲点をつけて認定するという方法が行われているのです。しかし、この方法は学生の意識の低下を招いてしまいます。勉強しなくても単位認定されるということで、授業が楽かそうでないかという基準で選ばれるのも事実です。負のスパイラルが起こっているので、授業のやり方を変える必要があります。

勉強意識の低い学生に対し学校が唯一の平等の機関であるのに、教員がその学生をはじくということは社会階層から見捨てられるのと同じだということも言っておられました。そのため、知識をつけて階層の上を目指すことができる環境があるのが本来の大学の姿という解釈になります。

●〈概論〉教授

 「学習支援計画書」という名前でシラバスを作成される文科省もシラバスは学生へのサービスというふうに考えています。しかし、学生の主体性を重要視してはいけないのです。学生の主体性を重要視するということは、知識による階層から地域や家庭環境に学生を戻すことになります。今まで育ってきた環境の中で培った知識や思想を主体とさせるこということです。そうではなくて、大学で、その講義で、何を学ばせたいかということが重要になります。シラバスは学生サービスではなく、教育活動の中心的なものだという見解です。

 概論というのは、大学に入ってきた新入生が主に受けたりする入門や基礎を教えることが多いです。しかし、このことを教えるには、その学問について全てを知っている必要があります。そのため、理想は、学内の、一番できる教員がその講義を受けもつのが理想です。長く研究し、多くの書籍を読んで理解している人でないと教えることができないのです。若い講師では、一夜漬けで教えている情報を発信するだけに終わってしまい、薄い内容の講義や、その場しのぎになってしまうことがほとんどなのです。その時点で学生にはわかりませんが、その講義を他の先生らが聞くとわかりますし、学生も2年3年と勉強していくと気づくかもしれません。
 理想的な環境で教えることができなければ、シラバス作成を同系統の専門家教員複数人で行って、重要なポイントを整理して教える必要があるくらい大切なのです。逆に、そこまでしなければいけないのです。

●教育情報の公開と信頼性
 有名大学に入る優秀な学生は、ある程度先生を選ぶ力や、必要な勉強が何か、考える力を持っています。そこは優秀な学生として評価できる点です。その優秀な学生でも、入学してからどれだけ成長させて何を彼に教えることができるのかが、大学としては重要です。要するに入学後の成長です。
 授業だけでなく、評価基準を曖昧にしてしまうのも問題です。優秀な学生は評価もいいでしょうが、ろくにきていない人でも底上げで点数を与えてしまい、優秀な人と大して変わらないことがあります。このようにダメな授業の例がいくつか挙げられています。
・教育目的が見えない
・成果を測る指標が見えない
・授業過程と成果が一致しない
・小テスト主義、単元主義で最終仕上がりが見えない
・レポート試験、観点別評価の中身が見えづらい
・演習、実習の中身と成果測定の中身が見えづらい
・オムニバス授業の接合性が見えない
・単元内、科目内で完結して、カリキュラム像が見えない
 
このような評価は学生の意欲を下げるだけでなく、勉強嫌いを増やす効果もあると考えます。入学したときの基礎講座でこのような評価方法や授業の方法だと、その後の大学生活にも大きく影響します。授業に出席しなくても単位がもらえるという考えできていない人や寝ている人もたくさんいます。学生の質を下げることは、大学の評価も下がることにつながります。入れる学生の質も大切ですが、入ってからの大学の教育はもっと大切です。

●コマシラバス
コマシラバスと今までのシラバスでは大きく分量が変わります。それはあえて細かく書いているのです。その細かく書いたシラバスを毎回配り、それ以降持参するようにシステム化することで、授業に対する学生の理解度、集中度が変わるということです。最後に芦田先生はきちんと講義すれば、復習、予習に時間を使うようになり、参照に書いた本も読み出すと言いました。できるかどうかは教員の技術もありますが、コマシラバスの効果なしに話し得ないということです。コマシラバスの特徴で学生目線から重要だと思うことは、先生が何を教えたいのかがきちんと明確になっていることです。
今の授業では、チャイムの音で始まり、いきなり学問の話に入る人が多くいます。しかし、学生からすると、その学問のなんの話かということは、授業の最後にならないと理解できないのです。最後に今はこういう話をしているのかということが納得できるほど進むということです。ロボットでいうと、いきなり部品を組み立てて行って完成図は見えず、完成すると何を作っていたのかがわかるという状況です。最後まで理解できないので、記憶も薄く、理解するまでは何を行っているのかがわからないような授業です。
 他には、先生と学生で授業の進行状況の確認ができます。はじめに教えることが明記してあることによって、授業の進行状況をシラバスを見ることで理解できますし、予習、復習もしやすいです。また、教材・参考資料が乗っていて、読めるほどのページであるという所も勉強しやすい点です。今までは、本一冊を購入しろと押し付けられて、ろくに使わないような授業もあり、学生が本を買わなくなるという悪循環がありましたが、参照図書の当該箇所をあらかじめ明記することで利用方法や頻度、図書館で本を探そうという気にもなります。立派な図書館があるのに本を利用しない授業があるのももったいない所です。また、授業で使用する本を図書館で揃えるというコンビネーションも学習には効果的だということも言えます。古い本は充実していますが、最新の本はかなり限られています。先生が使用する本を中心に集めるという仕組みを作ることで、本も充実し、学生の意欲をあげる効果にも少しは貢献できるかもしれません。
 また、学問一つを取り上げても、参照すべき書物が何冊もシラバスの巻末に出ていて、しかも参照箇所の指示もないので、それを全部読まないと質問はできないということも感じていました。勉強不足の身で質問しても先生には迷惑ということも考えられたのです。しかし、こうして学習しているポイントを該当頁とともに教えてくれていることで、その文献を読んで、講義を受けて、それでも理解できないなら聞けるというやりやすい環境になると思います。
 どれだけの人がシラバスを熟読するかはわかりませんが、授業で使用することで出席している人は、授業内で同時進行で使用し、内容の理解もできるので、無意味というわけではありません。
 私が、在学している期間に導入は難しいと思いますが、入学した時からこの制度があったら、今まで受けてきた授業ももう少し理解できたのかなと思いました。コマシラバスを作成して使用するのがめんどくさいという教員が出てくるのは目に見えていますが、大学は、家庭の階層をシャッフルするために学生を社会に送り出すための機関であって、教育が大事なのです。学生としてはより良い授業を開講して欲しいですし、他の大学との差別化にも利用できるかと思います。芦田先生のシラバス論がどれだけの人に読まれ、利用されるかはわかりませんが、今回のFD研修で、この話を聞けたことは私の人生を変えるほどの理解と情報を提供してくれるものだと思います。この文章は感想文でもあって、印象に残ったのでその日のうちに書き出しておきたいものだったので形に残しました。
 
最後に、大学という機関は、地域や家庭の文化環境からあえて壁を作り、新たな次世代のリーダーを作るための知識を教える組織であり、貧困な親の子供でも、富裕層の子供でも平等に教えられる組織で、差別なく教育する組織であることを一番に思っています。

(以上)
 
 指導教員である私自身も耳の痛い話ばかりだが、このように学生自身は教員の授業に、教員が思った以上に関心を持っている。学生は見ているのだ。どの教員が手を抜いていて、どの教員が一生懸命頑張っているのかも。

 なお、この全学FD研修会を開催した経緯は、私が教学推進課の芳中宗一郎さんという方に芦田先生の『シラバス論』についてお話したことに始まっている。7月下旬、芦田先生が『シラバス論』の原稿を12万字ほど書かれていた頃(芦田先生からは進捗があり次第、原稿をお送りいただいていた)、本学の若手教職員が一同に集う会があった。その酒席で、私は芳中さんの前に座って、本学のFDのあり方やシラバスのあり方などについて色々と意見をぶつけていた。その時に、「そういえば…」とカバンの中に入っていた校正原稿を取り出して、芳中さんにお見せしながら、「こういう面白い議論を展開している先生がいるんです」と話をした。芳中さんもその場で熟読して「面白いですねぇ」と言ってくださり、「教学推進課なら全学FD研修会を企画しているので、うまく行けば芦田先生にも来ていただけるかもしれません」と仰って下さった。後日、早速私から芦田先生に「よろしければ全学FD研修会の研修講師をお願いできませんでしょうか」と尋ね、ご快諾いただいた。以上が経緯である。その後は、芳中さんのお力添えで関係各位への説明や企画・運営などを行っていただいた。芳中さんのお力添えがなければ、まず開催できなかった。ここに記して、心から感謝の気持ちをお伝えしたい。

 

3-2. 2020年シラバス入力項目(案)に対する“憤り”
 このように『シラバス論』についてある程度の知識を得た頃、教授会の資料にて2020年シラバス入力項目(案)が上がった。来年度のシラバス入力項目(案)だ。だが、この入力項目自体もまだまだ未熟なものであった。教授会では、この入力項目について教務委員の教員から報告があったところ、一人の教員から「全ての授業に対して、『アクティブ・ラーニングの実施』という項目があるのはおかしい」という発言があった。その通りだった。その上で私から、「これは誰が作成したものなのか」と尋ね、教務委員は「事務職員が主として作成している」と回答した。これは驚きだった。シラバスを書く主体である教員(教育職員)が作成しているのではなく、事務職員が作成している。となると、確かに教員がシラバスを“使う”気にはなれない。そこで、すかさず「その担当職員が誰かを調べて、その担当職員に繋いで欲しい」と教務委員に伝達した。
 
 教授会終了後、10分も経たないうちに担当職員の方から連絡があって、後日入力項目について議論することとなった。当日、担当職員には中原が執筆している経営学総論Bの「コマシラバス」と、なぜこのようなコマシラバスが必要であるかの資料を手渡して、なぜコマ化しなければならないのかを丁寧に説明し、是非とも入力項目の再検討を求めたいと伝達した。担当職員からは、「すぐに取り掛かるのは難しいが、要検討事項として時期を見図りながら協議していきたい」と(控え目だが)前向きな回答が得られた。この後、本学では全学FD研修会が行われた。

 なぜ、この入力項目に対して“憤り”を覚えたのかと言えば、特に「授業計画」の部分である。本稿でもしきりに言及してきたように、15回が「テーマ」と「方法・内容等」だけであれば、教員も使えないし、学生も使えない。教員の専門性も棚上げされ、それによって学生も読まない・使わないシラバスになってしまっている。そもそもテキストが授業全体で一冊(もしくは二冊程度)だとすれば、教員が個々のコマを進めていく指針はテキストに限られ、それをどのように教員が理解しているのかが不明瞭だろう。仮にパワポ資料で講義資料を作成したとしても、パワポは「(視覚的な)イメージの共有」にだけ貢献し、そのイメージがどのような意味を持つのかという「(言語的な)意味の共有」がなされない。現在、とある出版社では、テキスト拡販のために15回分のパワポ資料を教員に無料配布しているらしい。そんなことをしていたらますます教員も学ばないし、テキストも共著執筆が多い時代であるから、余計に教員の専門性は細分化・複雑化し、教員が体系的に学ぶ(学び直す)機会が失われている。その意味で、((海外テキストの)共同和訳はありえても)、(日本語テキスト)の共著執筆は控えなければならない(私自身も共著原稿は書く機会があるが、原稿依頼を受けたものだけに限定しており、自分自身では極力単著執筆を行い、読み・書きを鍛えるようにしている)。

 テキストについてもう少し言及すれば、米国帰りの他大学の大学教員と話をしていた時(この先生はとても優秀な方なのだが)、「日本のテキストは共著執筆なのに、内容が薄すぎると帰国してから思うようになった。米国のテキストはもっと厚みがあったし、一人で書いている場合が多い。恐らく、研究テーマが細分化・複雑化しすぎていて、大学教員が経営学の全体を掴むことが出来ていないのではないか」と話していた。その通りだ。日本には(細分化・複雑化しすぎた)テキストや論文が多すぎるのだ。日本の研究水準の低さは、論文の質が低下していることであって、数が少ないことではない。

 

3-3. 大阪産業大学における“大学教育”のこれから
 全学FD研修会が終わってから、出席していた教員に感想を聞いて回った。その中で「シラバスを改編するのに何年かかるか分からない。あなたが一人でやっていても効果は薄いのではないか」というコメントをもらった。こうやって責任転嫁している教員が本学にいること自体がとても情けないのだが、そもそも一人でも実行しようとする意識がなければ改編(改革)など、始まらない。

 戦後最大の思想家と称される吉本隆明は、1982年に中野孝次を中心とした反核声明(反核運動)を批判して、当時の文壇や論壇から孤立無援の状態になりながらも、それでも批判し続けていた(『「反核」異論』深夜叢書社)。私は当時のことはよく知らないが、しかし吉本隆明が既に多くの愛読者を抱えながらも、自分の思考に基づいて「一人でも闘ったこと」(と、それによって多くの愛読者を失ってしまったこと)に私は大変感銘を受けている。それは、吉本隆明のように一人でも闘うことのできる専門性を身に付けている者を“先生”と呼ぶからだ。『シラバス論』の「あとがきにかえて」でも、芦田先生が次のように言及されている。

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 “先生”と呼ばれる人たちは他人の言うことを聞かない。他人の言うことを聞かなくても生きていける人たちこそ“先生”と呼ばれる人たちなのだから、それは当たり前のことかもしれない。“先生”が耳を傾けるもの、言うことを聞くべきものは〈真理〉なのだから。したがって“先生”は、〈権力〉にも〈学生〉にも媚びてはいけない。まして「学長ガバナンス」なんて言葉は竹中平蔵の私語だと言って却下するしかない。〈真理〉ほど巨大な権力とガバナンスは存在しないからだ。「無知が役に立ったためしはない」とマルクスが言った通りのことなのである。

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 大学は、このような“先生”のためにこそ存在している。この点について、私には思い出深い言葉がある。昨年度本学を退官された信吉史明先生(元大阪産業大学経営学部教授・名誉教授)が、「大学は、学生のためでも、職員のためでもなく、教員のために存在している」と最後に言い残されて、長い教員生活を終えられた。それはまさに、“先生”が自己研鑽を通じてつねに教育研究に邁進し、どんな学生に対しても自らの最高判断で接すべきということを、身をもって体現されていた信吉先生の深く重たい(お別れの)言葉だった。このお言葉は、今でも私の心の中に深く刻まれている。また、同じく退官された東良徳一先生(元大阪産業経営学部教授)は、在任中に次のような言葉をかけてくださった。「中原さん、若い時はとにかく目の前の課題に必死で取り組むしかない。今が大変でも、とにかく頑張りなさい」。このお言葉も、若手教員である私の心の支えになっている。お二人の“先生”が私の中でまだ教鞭を執っておられるようだ。

 「これから」のことは、残念ながら若手教員の私には分からない。だからこそ、「これまで」を経験された“先生”のお言葉にしたがって、「これから」を歩んでいくしかない。そうやって大阪産業大学の歴史は刻まれていく。もう10年も満たないうちに本学は学園創立100周年を迎える。

 最後に、芦田先生に一言申し上げたいと思います。今回芦田先生が“殺した”既存のシラバス論ですが、芦田先生ほどシラバスを愛している先生はこの世にいないと感じています。それは『シラバス論』という本のタイトルからではなく、「自由に殺しうるから深く愛しうる」という芦田先生ご自身のお考え(ヘーゲルの考え)が色濃く反映されていると思うからです。芦田宏直という書き手は、シラバスを深く“愛している”。私は、そう感じています。ご出版おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。

以上